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青パッド 徳川譜代として幕閣に重きをなした青山家


大書院 篠山藩主青山家は、江戸幕府が編纂した系図集『寛政重修諸家譜』によれば、「花山院堀川師賢(後醍醐天皇の忠臣)の 子 信賢、その子 師資、其の嗣 師重、初めて青山と称す」と記されています。師重の後裔忠門のとき、近江国から 三河国へ移り住んで三河国額田郡百々村に城を構え、松平広忠・徳川家康の2代に仕えて青山氏発展の基礎を 築いたのです。
その子忠成は早くから家康に近仕し、21歳の時に父忠門の後を継いで、天正13年(1585)、秀忠の傳役となり ました。11歳の秀忠が上洛したとき随従して吉から従五位下常陸介に叙任され、家康が関東に入封されたのち武蔵国に 5千石の知行を与えられました。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに際しては秀忠に従軍して決戦に遅れましたが、 翌年には上総国と下総国に併せて1万5千石を賜り大名に列したのです。さらに、江戸奉行・関東総奉行を兼任し、 本多正信・内藤清成と並んで幕政に重きをなしました。
秀忠の治世下では、「仁」の酒井雅楽頭、「智」の土井大炊頭とならんで「勇」の青山伯耆守と並び称されて 将軍秀忠を輔け、武蔵岩槻4万5千石に出世したのです。ところが、元和9年(1623)3代将軍家光の勘気にふれ、 忠俊は領地を収公されるという憂き目にあいました。忠俊がなぜ勘気にふれたのか、その理由については明確ではなく 記録も残っていません。とはいえ、寛永九年(1632)に秀忠が死去すると出家して春室宗信と名乗った忠俊に江戸より 「赦免」の手紙が届いたのです。このことから、忠俊の失脚は新将軍となった家光と大御所秀忠の二元政治という 当時の政治状況によって起きたものであったと想像されます。つまり、家光は忠俊の忠誠をわかっていながら、 自己の権力強化のために秀忠派の重鎮忠俊を切り捨てたということだったのでしょう。
こうして、寛永11年(1634)、赦免を受けた忠俊の嫡子宗俊は御書院番頭・大番頭をつとめ旗本3千石に復帰、 正保5年(1648)には信濃国小諸2万7千石の大名に返り咲くことができたのです。さらに、大坂城代に任じられ、 延宝6年(1678)に浜松5万石に転封されるなど青山氏の再興を成し遂げた宗俊は、翌7年、76歳を一期として 世を去りました。その後、青山氏は丹波国亀山に移され、さらに、忠朝の代の寛延元年(1748)に篠山へ国替となり、 以後、明治維新まで篠山藩主として存続したのでした。
・写真:篠山城内に鎮座する青山神社

・青山家系図

系図

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